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サマーウォーズの感想


サマーウォーズ」を観てきた。
感想とか書いてみようと思う。



監督、他スタッフが「時をかける少女」と一緒なので、多分に「あの時かけの〜」的期待感を持って映画館に足を運ぶだろうけれど。
そこは、大傑作の原作をベースにした「時かけ」に比べると、今回はオリジナルストーリーだから、「時かけ」成分と同じものを期待するとツラいものはある。
時かけは〜だったのになぁ・・・」って不満感とか、消化不良を感じると思う。


ちょっとストーリーのラインが散漫で、掘り下げ不足とか、要素の未消化とか多かった。
あれだけ魅力的な登場人物が登場するけど、この尺では描き足りない感じ。


なにより主人公のはずの健二が、ストーリーの中で「活きて」こない。他のキャラクタに美味しいところどりされちゃって、最後の最後にほんのちょっとだけ活かされてる場面が出てくるけど、正直「健二不在」でもストーリーはほぼ大枠を描くことができてしまう。
ここまで存在感が薄い主人公も珍しいし、それはヒロインの夏希もそう。



んでも面白くないかと言えば、これが実に面白い。


時かけ」はなんというか「大人」ウケする映画だった。
それは「大人の鑑賞に耐えうる」とかそういうことではなく、リアルタイムであの世代を生きている中高生よりも、「かつてそうだった」世代の「ほろ苦く淡い想い出」をくすぐるような作品だった。



一方「サマーウォーズ」は、きっと「同世代のコたちにたまんない」作品だと思う。
中高生でこの映画観てたら、多分すっごいハマってた自信がある。
だって、「モバゲー世代」にジャストミートな作品だもの。
作中で描かれる仮想空間「OZ」は、多分にSNSセカンドライフ的要素を持っているけど、一番日本でこれに近いサービスは、「モバゲー」か「GREE」あたり。
mixiは使ってるけど、モバゲーはちょっと・・・」って世代と、「モバゲー」世代とでは、多分そこで大きく「感度」の温度感が違ってくると思う。


いわゆる「ケータイ世代」と「PC世代」とでは、サマーウォーズへの感受性は全然違ってくるだろう。


以下ネタバレだけど。
超高性能スパコンでも阻止できなかった「敵」を、最後に仕留めるのは「ケータイ」だし、「無名のネットユーザーたち」で。支援にまわる側は「DS」使ってるって描写は、そのことをすっごく象徴していたように思う。


俺、あそこでケータイから勝負かけるってのに、すっごくシビれた。
でも同時に「ああ、これが俺がこの作品にどこか醒めた距離感を感じるポイントか」とも思った。




ちょっと「サイバーパンク」(ほぼ死語)オタク的な事を書くと。


仮想空間上でのバトルってのは、それこそサイバーパンクではベタベタなテーマなんだけど。
サイバーパンクが唯一「未来予測を仕損なった」のが「ケータイ」だ。
それが証拠に、「攻殻機動隊」ですら「ケータイ」はロクすっぽ出てこないし、出てきても作品の根幹には絡んでこない。


電脳コイル」では「ケータイ」の進化形としての「電脳メガネ」が登場するけれど。
あれはあれで「ケータイのメタファ」ではあっても、「ケータイそのもの」ではない。
だから「ケータイ」そのもので、ネットの海へダイブするというのは「サマーウォーズ」が初めてなんじゃないだろうか?



しかも、あの「OZで展開される光景」って、これまでのサイバーパンク作品では、例えばジャックインだったり、ヴァーチャルリアリティ技術だったりを使って「実際にあの光景を視る、あるいは体感している」のが常だった。
ところがこの作品で描かれる「OZの光景」は、間違いなく「ユーザー側の脳内妄想」だ。


ラストの夏希のバトルなんか、携帯のVGAQVGAの低解像度画面に、今時のモバゲーのFLASHゲーム程度の画面が表示されていただけに違いない。
PC端末ですら、よくって「今のセカンドライフ程度」の仮想空間表示だろう。


なのに、アクセスするデバイスの別に依らず、すべて「あの光景」でOZ内は描写されている。
バイスが違えば「表示性能」も異なるはずなのに。


つまりそれは、「利用ユーザーの視覚に対してOZがあのように表示されている」わけではなく、「利用しているユーザーの脳内であのようにイメージされている」ということだ。


「実はOZは既存のPC・モバイルサイト程度の表示能力しかない」という事は、冒頭の部室でバイトに励む健二達のシーンや、夏希の携帯画面のインサートなどで、明示されている。
ここは、従来のサイバーパンク作品と根源的に大きく異なっているポイントの1つだ。


ということは、「OZ」で実現されている技術というのは、物語内では2010年、つまり今から1年後の世界だけれども。
実際には「ほぼ今、存在している技術の集大成」だと言える。
映画を観ていて「ああ、こんな仮想空間あったらいいな」と思ったけれど、実は「もう既に似たようなものは、想像力さえ働かせれば存在している」のだ。


つまり、「想像力(妄想力)」さえあれば、「サマーウォーズ」の世界は、今と地続きでたどり着くことが可能な「ほぼ明日の未来」の物語だ。


だからOZの光景を「2010年にこれはありえないだろう」と感じるのか、「もう既に親しい世界」と感じるのか。
ここにも。この映画への感受性の違いがあると思う。



ちょっと論がずれたけれど。


最初にも触れた通り、物語としては「弱い」「練り足りない」「ご都合主義」的な部分がたくさんあって、まとまりが今ひとつの感は否めない。
けれど、テーマとしての「大家族のつながり」とか、「ネットと現実のクロスオーバー」「ネットで世界を救っちゃう」「ネットで世界中がつながっていく」とか、そういう「かもしれない(現実的にはありえないけど、可能性としては)」的要素のてんこ盛りっぷりは、ストーリー、作品としての「つめの甘さ」というか、ウィークにもなっていると思うんだけど。


でもそれは「中高生でこれ観てたら、ものすごいハマった」と先に書いたように、その年代・世代には「たまらない」要素でもある。
「厨房の妄想」の充足的なストーリーとしては、これは実に見事だ。
ある意味「厨房の頃に、妄想したSFストーリー」を、その妄想のエッセンスだけ残して、ちゃんと「大人の仕事」として作品に仕上げてるなーと思う。


だから多分、大人、というか俺ぐらいのおっさんからすると「甘さ」に感じられるし、ちょっと観ていて「こっ恥ずかしい」気持ちにもなってくるんだろう。


でも「いいなー、今の若いもんはこういう映画をリアルタイムで体験できて」と、ちょっぴりうらやましくなった。
いいなー、ホントに。



この映画、中高生ぐらいのコたちは、是非友達と観にいって、素直に楽しんでおくべきだよ。



あと、やっぱり「おばあちゃん」が素敵だよね。
マジでちょっと泣いちゃったものw